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2014.02.03 (Mon)

《いずみシンフォニエッタ大阪 第32回定期演奏会》尺八協奏曲,三井の晩鐘

いずみシンフォニエッタ大阪 第32回定期演奏会
邦楽器との響演
2014年1月31日(金) 19時開演


 ホール全体が音楽に包み込まれ、小宇宙が広がった。そんな、鮮烈で素晴らしい演奏会であった。演奏曲目は『尺八協奏曲』(川島素晴作曲,委嘱新作・初演)と『「三井の晩鐘」~ソプラノ、浄瑠璃、室内アンサンブルのための』(猿谷紀郎・鶴澤清治〈浄瑠璃部分〉作曲;岩田達宗演出)の二曲のみであったが、それだけで十分満足できる、いや、それ以上に得るものがあった演奏会であった。
 本来指揮をされる予定だった飯森範親さんが、インフルエンザにて生憎の欠席。仕事に穴を開けたのは人生初だそう。この日は既に治ってインフルエンザ陰性の診断を受けていたそうだが、大事を取って欠席とのこと。非常に残念ではあったが、その代わり、両作曲者とも指揮のできる方であったため、それぞれの作曲者が指揮をすることに。なかなか貴重な演奏会となった。
 二曲とも、録音は存在しない(であろう)作品であり、しかも『尺八協奏曲』はこれが初演。当然、このレポートも曲を一度聴いただけの記憶とプログラムノートを頼りに書くようなことになってしまうので、不正確な部分も多くあるであろうということをご承知願いたい。

『尺八協奏曲』<委嘱新作・初演> 
 作曲:川島素晴

 尺八は、藤原道山さん。超がつくほど有名な(そしてイケメンの)、都山流の尺八奏者。
 作曲者の川島素晴さんとは東京藝術大学の同期だそうで(それぞれ邦楽科と作曲科)、今回の尺八協奏曲の前にも『尺八(五孔一尺八寸管)のためのエチュード』という曲を2010年に作曲。こちらも藤原さんのために書かれた曲であるが、これはソロ曲。協奏曲も書きたいと予てより考えていらっしゃったよう。

 曲は、四楽章構成で、全楽章アタッカで演奏されるが、ソロ奏者は各楽章ごとに舞台袖に戻る。各楽章の題名は、尺八奏者の藤原道山さんの名前を一文字ずつ四季にあてがったものであり、春と秋が短く、また、夏と冬は長くなっている。このような楽章配分は、現代の日本を象徴している。

<第一楽章「春の藤」>
 最も短い一尺三寸管(G管)による。全体を通して、高音の下降音型に支配されており、オーケストラもほぼフル稼働で、春の光り輝く陽射しと満開の藤棚が表現されている。一尺三寸管の明るく軽快な音色は、まるで音楽に生命の息吹を与えているかのよう。グロッケンや、弓で弾くビブラフォンの音色も印象的。

<第二楽章「夏の原」>
 最も長い二尺三寸管(A管)による。冒頭から、楽器を擦る、叩くといった奏法や、息を通すだけの金管楽器など、オーケストラは夏の原の自然描写に徹する。この自然の中を、指揮者と尺八奏者が闊歩し、それに呼応して各セクションがそれぞれに与えられた音を奏でる、偶然性の要素が大きい音楽である。雷や花火、蝉、蛙、風などさまざまな描写がなされていて楽しいが、どこか割り切れない暑苦しさのようなものもあり、単なる自然賛歌ではない、現代日本の夏の風景への素直なオマージュとなっている。

<第三楽章「秋の道」>
 「尺八」の語源でもある、一尺八寸管(D管)による。最も技巧的な部分。金管楽器による、アタックの強い、スタッカートで音の鏤められたパッセージ。弦楽器による、尺八の縦ユリを髣髴させるようなゆらぎのパッセージ。素早い沈り浮り(メリカリ)である。ハープ、チェレスタによる、水のように流麗なスケール的パッセージ。木管楽器、特にダブルリード楽器による諧謔的な楽しさを持ったパッセージ。そして、弦楽器による、段差を躍動的にかけ上ってゆくようなパッセージ。摺り上げ(スリアゲ)であろう。
 まず、これらの性格を異にする五つのパッセージが順に登場し、尺八はそれらすべてのパッセージを共に奏でる。その後、それぞれのセクションのパッセージが自由に絡み合い、様々な人や風景の入り交じる秋の行楽シーズンの様相を見せる。
 尺八の限界に挑む難曲であり、それぞれのパッセージのキャラクターを瞬時に演じ分ける見事さにはただただ聞き入るばかり。尺八の新しい魅力をこれでもかと見せつけられる。
 曲が続く中、ソロ奏者は舞台袖に戻る。オーケストラが次第に落ち着き、秋の終わりを感じてきた頃、二階席にソロ奏者が現れる。

<第四楽章「冬の山」>
 『春の海』でもお馴染み、一尺六寸管(E管)による。二階席から尺八が一音吹き始めた瞬間から、冬が始まる。尺八の「一音成仏」の思想に基づき、これまでの動の世界とは打って変わって、ここでは静の世界、前人未到の一面の銀世界が描かれる。
 とことん尺八の一音にこだわった曲の作りで、尺八が澄んだ真っ直ぐな音を吹くと、それに呼応して指揮者がオーケストラに指示を出し、トーン・クラスターを形成してゆく。高く聳える美しい冬山の頂上から、徐々に見下ろしていき、気付けば一面の銀世界が広がっているような、そんな光景である。尺八とオーケストラ、その対話の構図が象徴的であり、広がる世界は幻想的で美しいことこの上ない。
 ずっと浸っていたいこの時間。至高のひとときである。やがて、冬も終わる。照明も徐々に暗くなってゆき、やがて、すべての照明が消える。残る音は、尺八の真っ直ぐな一音。その音を受けて、全く同じ音をビブラフォンが弓で奏でる。尺八の余韻が消えゆくさまをビブラフォンが名残惜しそうに留めようとして、しかしその音も闇に消えゆき、曲は終焉を迎える。夢現の世界である。

 余韻に静かに浸りながらも、心のなかでは「ブラボー」が零れ出る。

『「三井の晩鐘」~ソプラノ、浄瑠璃、室内アンサンブルのための 
 原作:梅原猛
 台本:石川耕士
 浄瑠璃作曲:鶴沢清治
 作曲:猿谷紀郎
 演出:岩田達宗

 ソプラノは天羽明惠さん。三味線は、浄瑠璃部分の作曲者でもある重要無形文化財保持者(人間国宝)の鶴沢清治さんで、浄瑠璃は豊竹呂勢大夫さん。
 この曲は大阪のイシハラホールの10周年を記念して、同ホールより委嘱された作品とのこと。約10年たった今、再演の機会を得たこの曲は、浄瑠璃と西洋楽器のアンサンブルという東西の音楽が真っ向から衝突し一つの曲となった、意欲的な作品である。また、演出により音楽の世界は一段と深まりを見せ、物語の世界へと会場を誘う。

 基本的には室内アンサンブルとソプラノのセクションと、浄瑠璃のセクションが交互に展開していく。鉦の音で物語は幕を開ける。冒頭のアンサンブルは、弦楽器がリードしているような印象であったが、やがてクラリネットが主題動機を繰り返し、ここから先はアンサンブルセクションの核を担うようになる。間や強弱の表現など、日本の音楽の世界観を持った、しかし、西洋の音楽である。
 物語は、浄瑠璃によって進められる。これが、本場大阪で聴く、本物の浄瑠璃か、などと思いながら聞き入っていた(生憎、浄瑠璃の経験がほぼ皆無であったものだから、これくらいのことしか述べられないことを恥ずかしく思う)。調子よく進んでいく物語、しかし起伏に富んだ語りであり、ここぞというところでぐっと引き込まれる。これが、浄瑠璃なのか。これが、浄瑠璃の「技」なのだろうか。

 かくして曲は展開してゆくのであるが、中程で現れたアンサンブルパートのコラールは、思わず涙してしまいそうに鳴るほどの美しさがあり、これにはすっかり心を奪われた。
 また、中盤では浄瑠璃が三味線ではなく、アンサンブルと共に登場する部分があり、この部分は、浄瑠璃と低音域のコントラバスソロがお互い絡み合い展開していくもので、東西の音楽のアンサンブルの妙がそこにはあった。見事な融合である。
 とはいえ、クラリネットは全体的に核であることには変わりなく、終盤のフラッターツンゲ奏法で、低めの音程(微分音)でフレーズを奏でるクラリネットは壮絶であった。フラッターツンゲでただでさえ危ういクラリネットの音色、さらに音程を下げてこれでもかという程鳴りにくそうであったクラリネットの音色は、まさに登場人物の苦しみそのものであった。演奏終了後、特に拍手を贈りたくなったほどである。

 最後のソプラニストによる「聞かせて」の迫真さも物凄く、最後まで引き込まれる音楽であった。静かに終わる音楽、こちらも、いつまでも余韻に浸っていたい曲であった。

 アンコールは無いだろうな、と思っていた。そもそも、舞台の配置上、アンコール曲を演奏するのは不可能である。だが、全く物足りなさはない。むしろ、アンコールなんて付け加えたら蛇足でさえあっただろう。

 『三井の晩鐘』が終わった後、拍手のシーンでも印象的だったのは、アンサンブル、ソプラノ、浄瑠璃のそれぞれのスタイルの違い。とはいえ、ソプラニストはソリストであり、西洋音楽のスタイルであるから、取り立てて言うほど特別なことはないのであるが、浄瑠璃の二人は拍手を受け、正座の姿勢のまま静かに礼をするのみ。威風堂々としている。
 その間指揮者とソプラニストはそれぞれ礼をして、アンサンブル奏者たちは指揮者の合図によって立ち上がり、拍手を受ける。マエストロとソリストは舞台袖に戻るが、鳴り止まぬ拍手の中出ては入ってを繰り返す。アンサンブルも、座ってはまた合図で立って、を繰り返すいつもの光景なのだが、やはり浄瑠璃の二人は毅然としている。なんだか、日本の文化藝術の精神に、感動した。

 ここで、改めて感じる。今回の演奏会は、邦楽器との「融合」ではない。あくまで、「響演」なのだ。西洋音楽の中に邦楽を位置づける訳でもなく、その逆でもない。真っ向からの対立であり、対話である。お互いが歩んできた歴史が、そのまま、同じ舞台上に置かれた時の化学反応が、今回の演奏会であったのだと思う。その化学反応によって、これまでに経験したことのないような、全くの異次元が、この空間に展開されたのである。我々観客は、その新しい世界の、稀有な目撃者であり、貴重な体験者であるのだ。

 まさに、伝説。だったら、その伝承者となってやろう。


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